趣味の翻訳ができない日々

ありふれた日記

ゲルマン語の民からスラヴ語の民になるまで

思い返せば約二十年前、東大阪にある大学に入学し英語の勉強を始めた。東北の田舎から関西へ行ったわけだが、何をしに行ったのか。音楽をやりに行ったのだ(お前は何を言っているのかと思うだろうが、 塩次伸二のファンなのである。本人からギターを習ったこともある)

 

しばらくは英語(とアメリカ文学言語学とバンド)をしながら過ごしていたのだが、当時よく通っていた書店で人生を変える(狂わせる)出会いがあった。米原万里黒田龍之助である。両者の著作で初めて手に取ったのは『不実な美女か貞淑な醜女か』『その他の外国語』である。ちなみに、その書店は、いまはドンキホーテになっているらしい。

 

米原&黒田の本を読んでからはもう猪突猛進である。(ほぼ)全財産を注ぎ込みロシア語関連本を買った。今は絶版の『岩波ロシア語辞典』(赤いカバーのほう)を買ったのもこの頃である。

 

英語をそれなりに学び、大学を卒業した。その後、何を思ったか大学院に行くことになった。翻訳に興味があったので翻訳研究をやっていた。

 

いつロシア語学び始めたか?大学院に入ってからである。キリル文字を覚えてから初回の授業に出た。ついでに言うと、同じ授業(初級)を二年間受けた。ここできちんと勉強しておけば違ったのだろう。ろくに勉強しなかったため、ロシア語運用能力は現在も皆無である。

 

大学院入学後も黒田龍之助の著作は読み続けていて、スラヴ諸語に興味を持つことになる。そしてチェコ語セルビア語を独習した(途中まで)この頃に抱いたスラヴ語への興味が今でも持続している。

 

さて、私はゲルマン語の民であったことがあるのだろうか。